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砂漠の中の不夜城 ■□■
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18世紀の初頭、スペイン商人達は未開拓のラスベガス・バレーを抜けてロサンジェルスヘと向かう行路を「死の旅路」と呼び避けていた。
この谷を抜けて行く行路を開拓したのは、R・リビエラで、ロサンジェルスへ通 じ るスパニッシュ・トレールの旅程を3−4日間縮めることができたのだった。 この荒れ草の下に水を静かに湛えていた土地は後に、J・クラークにより書物で紹 介され、スペイン語でラスベガス、「草原・湿地」と呼ばれ有名になった。 19世紀の後半になり、ネバダで金銀が発見され入植者が急増、その後20年の主要な産業となっていった。1905年には、南加州からソルト・レーク・シティまでを結ぶ鉄道が完成し、ラスベガスは鉄道補給地としてその後25年間栄えることになる。 その年の5月15日にラスベガスはリンカーン郡 の下で市と制定された。1909年にクラーク郡が誕生、ラスベガスはその郡下にはいり、1911年3月16日に正式に市として認められたが、その時の人口はわずか80人であった。(クラーク郡は3,321人)1930年までに人口は5,165人となり、1931年3月19日のネバダ州の 賭博合法化に加えて、離婚法の成立、フーバーダム建設の開始で、ラスベガスはさらに大きな変貌を遂げることとな る。1940年までに、ラスベガスの人口は8,422人となり、第二次世界大戦の開始と共に、豊富な水・資源と広大な土地を持つラスベガスへ軍事防衛産業がもたらされ今日に至っている。 有名なブルー・エンジェルスを擁するネリス空軍基地は、全米でのモデル基地となっている。1960年までに、ラスベガス市は25スクエア・マイル、人口64,405人 (クラーク郡人口、127,016人)とネバダ州全体の22%を占めることとなる。 そして、1960年代には、ハワード・ヒューズによるカシノ・ホテル買収が始ま り、賭博業は会社組織によるクリーンなゲーミング・ビジネスへと発展していく。1980年になっても投資は続き、株式公開する会社も出てきた。そして、人口は164,674人に達する。(クラーク郡は463,087人)1985−1995年の間に人口は186,380から368,360人と2倍近 くになり、2005年までにラスベガス・バレーの人口は200万人を超すと推測されている。 これは、年間4%を越えるホテル部屋の新設・増設、それに伴う高い就業率が、その理由とされている。 現在も、毎月4000-5000人がラスベガスへ移住してきている。 ラスベガスの地理的位置は、緯度では埼玉とほぼ同じであるが、海抜664m、谷間という立地の為に、太陽の日差しと風(西風が多い)が強く、空気は乾燥している。いつも暑いと言われる気温であるが、一番暑い月である7月の平均最高気温は40度、最低気温は24度、12月の平均最高気温は14度、最低 気温は2度となっている。3月、4月の平均最高(最低)気温はそれぞれ、20(6)、25(10)度と過ごしやすい。雨量 は少なく年間105mm程度である。日本との時差は17時間で、米国西海岸の時間(Pacific Standard Time=PST)と同じである。 夏は、DST(Daylight Saving Time)、夏時間の為、日本からの時差は16時間の遅れとなる。 ラスベガスの現在の主要産業は鉱山業、軍事防衛産業、ホテル・観光業の他、コン ベンション(会議・展示会)が大きな地位を占めている。 豊富なホテルの宿泊施設を背景に、全米でシカゴと並び、有数なコンベンション開催地となっている。また、グランド・キャニオン、ブライス・キャニオン、モニュメント・バレーと いった隣州にある観光地への中継基地としての地位も年々高まり、ラスベガス発のこうしたツアー・パッケージも増えてきている。 ラスベガスの最も大きな特徴はやはり、カシノ・ホテル産業を基軸とした24時間 の生活体系であろう。 スーパー、洗濯店、カシノのレストラン、ガソリンスタンドなど生活に必要な店舗 は一日中開いており、3交代制で働く従業員にも日常生活での不自由は全くない。 公共の運送機関としては、CAT(Citizens Area Transit)というバスが市内を運行しているが、ストリップ大通 りを除き、郊外は 運行スケジュールが疎で、30-60分待つのは珍しくない。運賃は$2程度である。 タクシーを利用しても$10-20で空港からストリップ、ダウンタウンのホテル まで行けるほど、ラスベガスはホテルが隣接している。 税金に関しては、ホテルの税金、宿泊利用税は9%、消費税は7.25%である。 (2001年、4月現在) 州の個人所得税・法人税がないが、連邦税はある。
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